カルマ解消が全て終わった後は、聖地バラナシに向けて移動。
ヒンドゥー教徒にとって一生に一度は巡礼に訪れたいと思う聖地であり解脱の地らしい。ここバラナシで火葬されると天国に行けると言われていて、かなりの名誉だそう。インドと言えば、バラナシの風景やガンジス川をイメージする人も多いのではないかな。
電車で5時間かけてチェンナイへ戻り、空港近くのきれいなホテルにチェックインして、歩いてすぐのベジレストランでチーズドーサをいただいて早めに寝た。

翌4時半出発、飛行機でバンガロールに行き、また飛行機に乗り換えてバラナシ着。

それまで居たMayilanduthuraiはとてものんびりした田舎だったので、道の混み具合にかなり驚いた。北インドのバラナシではラッシーとサモサが名物らしく、地元のお店に案内してもらって出来たてを口にした。お、おいしい…!日本では甘すぎると感じるラッシーもインドではちょうどいい。サモサに添えられた野菜のソースもめちゃ辛いけどクセになる味。
巨大な鉄鍋でサモサやカチョリ(揚げパン)が大量に揚げられている。ひっきりなしに地元の方々が買いに来て、飛ぶように無くなっていくのが見ていて氣持ちいい。


チャイは小さな素焼きのカップで飲む。カップは洗わず一回使い切り。理由を聞くと、違うカーストの方と同じカップを使うことを避けるためとも言われるけど、カップを作る方の仕事を絶やさないためというのもあるらしい。破棄ではなく割って土に返すからもったいなくはないそうだ。

ホテルにチェックイン後、少し休んでアフタヌーンティをいただいてからガンジス川へ向かう。

車は途中までしか行けないので川まで20分ほど歩くのだけど、ここのカオス具合はほんとにすごかった。
車、バイク、自転車、トゥクトゥク、人力車がそれぞれ自分の行きたい方向に向けて突っ込んでくる。クラクションは鳴り止むことがないし、バイクも横スレスレを通っていくので怖い。もちろん信号はなく、ノールール。無事に辿り着くことに集中してると、頭の中が空っぽになってたからちょうどいいのかもしれない。

日が傾く頃にガンジス川に辿り着き、かなりの人混みの中ガイドさんに連れられて船に乗り込んだ。今日は月曜日だから人が少ないよと聞いてびっくり。週末とかお祭りの日とか、どんな感じになるのか想像もつかないくらいだ。

ここでは毎晩、神様への祈り、「ガンガ・アールティ」が捧げられる。バラナシは最古の街で、5000年以上も前からお祈りを一度も欠かしたことがないらしい。お祭りのような盛り上がりの中、火の儀式は続いていく。

これだけの人数が同時にお祈りするのはとてもパワフル。外側の神様に手を合わせるだけでなく、一人一人が個々の内なる神性にも手を合わせて感謝し、自分で自分を祝福し讃えられたらどれほど素晴らしいだろうと想像した。内側に平和が訪れ、あなたは私、私はあなた、みんながつながっていることを思い出して温かい涙が溢れる。
全ての神々も元は同じ、私たちはひとつなんだと、愛と歓喜の星の生き物なんだという記憶を甦らせたい。

船が動き夜のガンジス川を滑り出した。火葬場から煙が上がっている。
船首に立ち、首にかけていたルドラークシャ・マーラー(菩提樹の実の数珠)を手に取って、シヴァ神のマントラを108回唱えたのが我ながらあまりに自然すぎて、ああ、前世でもこうやって祈っていたんだなあと感じた。
自分とご先祖さまのカルマと同時に、地球のカルマについても思った。
わたしたちは自分の素晴らしさを実感するために、存在の対極を味わいたくて闇を体感してきた。もう充分陰は極まり、本来の光に転ずるとき。愛と歓喜の星、本来の地球の波動に戻るときに必要なのが、わたしたち一人ひとりが自分を思い出すこと。自分自身が地球と一つであることを身体で感じることなんだろうと。

夜は地元の山羊料理のお店へ。素焼きの壺に入れられ赤い火で煮込まれた山羊カレーは美味しそうだったけど、私はベジのパニール(チーズ)カレーにした。

ホテルに戻って早々にベッドへ。興奮して眠れないかと思ったけど即寝落ちした。
翌朝は5時前に出発してガンジス川へ。

船から眺めた朝日は人生一素晴らしくて、あまりにも美しすぎて夢かと思った。療養中の友人と一緒に見たくてLINE動画で繋がり、ライブで共有できてうれしかった。

今までは幸せすぎるときに「夢かと思った」と口にしてきたけど、逆だったんだと気がついた。喜びに満ちたこちらが本来の現実で、今まで生きてきた苦悩の世界が幻だったんだ。私という存在が肉体に入って様々なことを体験しているけど、本体はここではなく、ただ観ている(まさにアバターの世界!)。目撃者であり観察者が本来の私で、自分の概念で作り出した枠の中で苦しんでいたのは仮想現実みたいなものなんだ。どれだけ怖がっても悲しんでも、本質は全く傷つくこともなく、みんなただただ輝いている。何が起こっても心配ないことを知っているからこそ、ここ地球で様々な体験をして魂を磨くことを決めたんだ。
言い方を変えれば遊園地やお化け屋敷みたいなもの。安全であることを知っているから、恐怖体験を楽しめる。だけど本質を忘れていると恐怖に飲まれてしまう。
それが私たちが体験してきた、存在の真逆にあるもの。
つまり愛の対極、不安や恐れを感じてみたかったんだと。
そもそもこの不安や恐れってどこから生まれるかと考えてみた。
それはきっと、“今ここ“から意識を逸らしたときにだけ感じるもの。
様々な痛みや恐怖を体験した過去に囚われ、それが未来にも起こるのではないかと怯える。「こうだったから、きっとこうなる」という思い込みが常に不安や恐れを生み出している。でも真実は違う。未来は過去の延長線上ではないし、いつだって“今ここ“から新しく創造できる。最も大切なキーワードは、「わたしはどうしたい?どうありたい?」。常に自分に問いかけること。外側の常識や意見ではなく、内側の心の声を大切にすくい取り、行動に移していく。それが出来るのは、肉体を持った私たちだけ。

昨夜はよく見えなかった火葬場も今朝ははっきり見える。ものすごい量の木が建物にぎっしり積まれている。白檀やマンゴーの木など香りの良い木が薪として使われているらしい。
人の身体が焼かれている煙を浴びるのは初めてだった。5000年以上も前から24時間欠かさず火葬が行われているらしい。あまりに死が身近にあるからこそ、生きるパワーも強いと思う。産まれて、死ぬ。それは何かが終わるものでなはく、自然な循環。水から生まれ、火(霊)に還るんだなと感じた。
インドで死は祝福と捉えれられているのは、魂は永遠で肉体を脱いだだけということを知っているからなのだろうか。

創造主ブラフマーが瞑想したと言われるガンジス川のほとり。
船を止めてその近くで沐浴した。
水との境目がなく、自分自身が川そのものになったような感覚。
口と鼻に水が入らないよう注意して、頭まで浸かること5回。
「ジェーガンガーマイヤー(母なるカンジス川よ)」と唱え、朝陽に向かって礼拝。

無意識に口から出てくる超古代の日本の祝詞や言霊の響きを、自分が聴いている。
振動数が自然と溶け合っていたのか、この時までは全く感じてなかった寒さが、川から上がると同時に襲ってきた〜寒くてめっちゃ震える!
撮ってもらった動画を見ると、川に入っていたのはわたしと地元の方含め4人くらい。ちょうど船で通過した観光の方にめっちゃ写真を撮られていた。

ガンジスに来たら当然沐浴するものだと思っていたのは、前世でここに居たからだろうか。
沐浴後、一つの人生が終わり、本格的に自分の使命を生きる新しいわたしに産まれ直したような感じがした。完全に見てる側の存在になったなあと実感するほど視点が変わった。

炎の護摩焚きのあとの聖水の禊の体験は、本当に素晴らしいものだった。
火は日(太陽)、霊、見えないエネルギー、陽
水は月、肉体、見えるもの、陰
両方行うことで、肉体の中の火(霊)を開花させるんだなあと思った。

帰国してから観た映画「ガンジスに還る」の言葉がぴったりだなあと思ったので書いておきます。
“心は真実、他は全て虚構なり“
“心の声を聴け 心の在りかを知れ“
“心の声に従え さもなくば一生悔やむ“

つづく